松本 零士 | |
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本名 | 松本 晟 |
生誕 |
1938年1月25日(86歳) [[image:テンプレート:Country flag alias Japan|border|25x20px|テンプレート:Country alias Japanの旗]] 福岡県久留米市 |
国籍 | 日本 |
活動期間 | 1954年 - |
ジャンル | SF漫画 |
代表作 |
『銀河鉄道999』 『宇宙戦艦ヤマト』 他多数 |
受賞 |
第3回講談社出版文化賞 (『男おいどん』) 第6回星雲賞 (『宇宙戦艦ヤマト』(TVアニメ)) 第23回小学館漫画賞(『銀河鉄道999』『「戦場まんが」シリーズ』) 第7回日本漫画家協会賞特別賞 映画の日特別功労賞 紫綬褒章 旭日小綬章 |
公式サイト | 松本零士オフィシャルサイト |
松本 零士(まつもと れいじ、Leiji Matsumoto、本名:松本 晟(まつもと あきら)、男性、1938年1月25日 - 2023年2月13日)は、日本の漫画家。福岡県久留米市生まれ、東京都練馬区在住。血液型はB型。
宝塚大学教授、京都産業大学客員教授、デジタルハリウッド大学特任教授を歴任。漫画家の牧美也子とは24歳で結婚。早稲田大学大学院教授で元三菱重工業長崎研究所主管の松本将は実弟。
代表作に『銀河鉄道999』など。SF漫画作家として知られるが、少女漫画、戦争もの、動物ものなど様々なジャンルの漫画を描いている。アニメ製作にも積極的に関わり、1970年代半ばから1980年代にかけては松本アニメブームを巻き起こした。
漫画[]
テレビ[]
- 宇宙戦艦ヤマト(1974年 監督・設定デザイン)
- 宇宙戦艦ヤマト2(1978年)
- 宇宙戦艦ヤマトII ヤマトよ永遠なれ!(1979年)
- 宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち(1979年)
- 宇宙戦艦ヤマトIII(1980年)
- 宇宙戦艦ヤマトIII 太陽系の破滅(1983年)
- 宇宙戦艦ヤマト2(1978年)
- 宇宙海賊キャプテンハーロック(1978年)
- SPACE PIRATE CAPTAIN HERLOCK(2003年)
- 銀河鉄道999(1978年)
- 新竹取物語 1000年女王(1981年)
- わが青春のアルカディア 無限軌道SSX(1982年)
- コスモウォーリアー零(2001年)
- ガンフロンティア(2002年)
- 銀河鉄道物語(2003年)
- 銀河鉄道物語 〜永遠への分岐点〜(2006年)
映画[]
- 宇宙戦艦ヤマト(1977年)
- さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち(1978年)
- ヤマトよ永遠に(1980年)
- 宇宙戦艦ヤマト 完結編(1983年)
- 宇宙海賊キャプテンハーロック アルカディア号の謎(1978年)
- 銀河鉄道999〜GALAXY EXPRESS 999〜(1979年)
- 銀河鉄道999 ガラスのクレア(1980年)
- さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅(1981年)
- 銀河鉄道999 エターナルファンタジー(1998年)
- 1000年女王(1982年)
- わが青春のアルカディア(1982年)
OVA[]
- YAMATO2520[1]
- クイーン・エメラルダス
- ザ・コクピット
- ハーロック・サーガ ニーベルングの指環 ラインの黄金
- ヤングハーロックを追え! コスモウォーリアー零外伝
- メーテルレジェンド(2000年)
- 宇宙交響詩メーテル 銀河鉄道999外伝(2004年)
- 大YAMATO零号
- 銀河鉄道物語 〜忘れられた時の惑星〜
宇宙戦艦ヤマト裁判[]
松本零士は1976年頃に、『宇宙戦艦ヤマト』の原作について、企画・原案はプロデューサーの西崎義展であり、自分は基本ストーリーやアイデアのほとんどを出したが共同作品でもあり、原作については判断できず曖昧であると述べていた[2]。『宇宙戦艦ヤマト』のタイトルも西崎がつけたものと認めていたが[3]、西崎が破産した1997年頃より、自らが『宇宙戦艦ヤマト』の著作権者であり、西崎はアニメ化の使用許諾権を得たプロデューサーに過ぎず、その使用許諾権も失効したと主張し始め[4]、次いで西崎が逮捕された1998年には新潮社や産経新聞社のウェブページにおいて、西崎は『ヤマト』とは無関係で、『ヤマト』の全ての権利は自分が持っていると述べるようになった[5]。そもそも『宇宙戦艦ヤマト』は自作『電光オズマ』の「宇宙戦艦大和の巻」が原型であるというのが松本の説明である[6]。 そして、『ヤマト』の著作権を西崎から取得した東北新社との間で、1999年に「宇宙戦艦ヤマト等に関する合意書」を交わして[7]、2000年からは『新宇宙戦艦ヤマト』という新作を連載し、そのアニメ版の制作発表もした。
1999年になって『宇宙戦艦ヤマト』を作ったのは誰かという著作者を巡って西崎義展と裁判が行われた。松本側が原作と主張した『電光オズマ』『光速エスパー』、『ヤマト』の「創作ノート」、そして『冒険王』連載の漫画『宇宙戦艦ヤマト』のいずれも原作ではないと否定され、なおかつ松本はアニメの製作過程においても部分的にしか関わっていないとして、東京地方裁判所は西崎を著作者と認定し、松本側の全面敗訴となった[5]。控訴審中の2003年に法廷外和解して、松本と西崎の両者ともが著作者という合意を交わしたが、西崎が筆頭著作者であり代表して著作者人格権を有することになり、松本は西崎の同意なしに『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの新作を作れないことになった[8]。
なお、この裁判で西崎に敗訴した際、「私がいなかったら、作品の1コマも存在しない」[9]「西崎は悪魔だ、彼に味方する人物も赦さない!」とのコメントを一部マスコミに報道された。
裁判終結後の2009年公開のシリーズ続編『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』にはスタッフとして参加せず、名前もクレジットされなかった。2010年公開の『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの翻案作品にあたる実写映画『SPACE BATTLESHIP ヤマト』でも、西崎が原作者としてクレジットされ、松本の名は表示されなかった。
製作スタッフの中では、SF設定を担当した豊田有恒は、著書(日本SFアニメ創世記)で松本零士を全面的に支持し、西崎義展を批判している。一方で作詞家として1作目から関わっていた阿久悠は最晩年に産経新聞内で連載していたコラム『阿久悠 書く言う』にて「松本がヤマトの著作権者を名乗れるのなら、他のスタッフ達や私だって著作権者を名乗れる」、「西崎さんの熱意と情熱無しに『宇宙戦艦ヤマト』は存在しなかった」と書き残している。
銀河鉄道999裁判[]
2006年10月に、槇原敬之がCHEMISTRYに提供した楽曲『約束の場所』の歌詞の一部が、1996年より再開された新展開編『銀河鉄道999』の作中のセリフの盗用であると、松本零士は女性週刊誌やワイドショーに出演し槇原敬之を非難した。これに対して槇原は記者会見で否定し、同年11月7日付の公式ホームページにて「『銀河鉄道999』は個人的趣味で読んだことが無く、歌詞は全くのオリジナルであり、本当に盗作だと疑っているのなら(自分を告訴して)裁判で決着していただきたい」旨のコメントを発表している。松本が問題にしている漫画の台詞のみで盗作とする根拠は、「10年間講演などでこの言葉を幾度も語ったことがある。」と述べている。
2007年3月22日、槇原敬之が松本に対して、盗作だと言っている部分に対して証拠を示して欲しいと著作権侵害不存在確認等請求を東京地裁に起こした。裁判で松本側が盗作だという証拠が示せなかった場合は、CMソングの中止などにより、2,200万円の損害賠償請求も行った。これについて松本は3月26日のトークショーで「男たるもの、負けると判っていても戦わなければならない時がある」(この台詞は、劇場版999でハーロックが鉄朗に使用した)と述べ、また一連の訴訟について口頭弁論などに立つ気はないとも語った。
2008年7月7日、東京地裁で槇原、松本が口頭弁論のため、事件以降、初めて顔を合わせた。槇原はニュースやマスコミなどで取り上げられ、「泥棒扱いされて非常に不愉快だ」「問題の歌詞の部分は、仏教の因果応報の考えに基づいて独自で考えたもの」「謝れば許すつもりといっているが、それは罪を認める行為だ」と弁論、直後に松本の反論を聴くことなく退廷した。松本は「セリフと歌詞は座右の銘でとても大切なもの」「10年間講演で何度も語った」「一言謝ってくれれば許すつもりだったのに謝罪の一言すらない」「偶然に歌詞が似通うこどなど決してありえない」と反論した。
同年12月26日、東京地裁は「原告表現が被告表現に依拠したものと断定することはできない」と認定した上で、槇原に対する名誉毀損を認め、松本に220万円の損害賠償支払いを命じる判決を下した[10]が、その後双方とも控訴している。
2009年11月26日、東京高裁で控訴審が開かれ、松本が「槇原さんの社会的な評価に相当な影響を与えた」と陳謝する内容を和解条項として、和解が成立した(金銭支払なし)。
受賞歴[]
- 平成22年(2010年)旭日小綬章受章
- 平成13年(2001年)紫綬褒章受章
- 第7回(1978年度(昭和53年度))日本漫画家協会特別賞
- 第23回(1977年度(昭和52年度))小学館漫画賞受賞(『銀河鉄道999』『「戦場まんが」シリーズ』)。
- 映画の日特別功労賞
- 講談社出版文化賞(1972年)
- 第6回星雲賞(1975年)
- 「漫画少年」第1回長編漫画新人賞(1954年)
脚注[]
- ↑ 17代・18代ヤマトのオリジナルデザイナーとしてクレジットされているが、実制作には関わらなかったとされる。
- ↑ 「インタビュー『私は「みつばちマーヤ」が作りたい』松本零士」『季刊ファントーシュ VOL.2』1976年、ファントーシュ編集室
- ↑ 「インタヴュー・松本零士」『ぱふ』1980年9月号、清彗社、p.91
- ↑ おたくニュース会議室「002-2/11 宇宙戦艦ヤマトの復活だぞ!!」 おたくWeekly
- ↑ 5.0 5.1 平成11年(ワ)第20820号 著作権侵害差止等請求事件、同12年(ワ)第14077号 著作者人格権確認反訴請求事件 裁判所公式サイト
- ↑ 「松本零士インタビュー」『宇宙戦艦ヤマト伝説』安斎レオ編、フットワーク出版、1999年、p.50
- ↑ 平成16年(ワ)第13725号損害賠償等請求事件 裁判所公式サイト
- ↑ エナジオ社ニュースリリース『宇宙戦艦ヤマト」著作権者裁判が終結し、西崎義展の著作者人格権が確定しました」 エナジオ公式サイト内 2003年7月29日
- ↑ 「『宇宙戦艦ヤマト』 著作者はプロデューサー 東京地裁判決「松本氏は部分関与だけ」『読売新聞』2002年3月26日付
- ↑ 平成19(ワ)4156 著作権侵害不存在確認等請求事件、東京地方裁判所
参考文献[]
- 『ぴーぷる最前線松本零士』 福武書店、1983年
- 松本零士『遠く時の輪の接する処』東京書籍、2002年
- 吉本健二『松本零士の宇宙』八幡書店、2003年
- 『ファンタジー・ワールド!! 松本零士の世界』辰巳出版、2006年
外部リンク[]
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